BIG PAINTING BY BASQUIAT

3年間暮らしたカリフォルニアからニューヨークのマンハッタンに引っ越して暮らし始めたのはちょうど1981年のことだった。

マドンナが鮮烈なデビューをして、マイケルジャクソンのミュージックビデオがM TVで大人気だった頃である。

アート界はというとウォーホル、バスキア、キース・ヘリングなどが大人気で、ネオエキシプレショニズムという新しい具象絵画が台頭し始めていた。

ジュリアン・シュナーベル、フランチェスコ・クレメンテ、デヴィッド・サーレ、エリック・フィッシェルなど数々の作家がこの新しい絵画表現の作品を世に送り出した。

ギャラリーはというとチェルシー地区ではなく、まだソーホー地区に集中していてリオ・キャステリ、ソノベント、などの老舗ギャラリーに加えてメアリー・ブーンやガゴシアンなどの新しいギャラリーが力を発揮し始めた頃だった。

70年代の熱狂的なスタジオ54こそ終わったもののクラブカルチャー自体は全盛期を迎えようとしていた80年代、眠らない街マンハッタンには次々と新しい形態のクラブが出現した。

デビュー前のマドンナが入り浸っていたというクラブ、「ダンサテリア」、教会をクラブに改装してしまった「ライムライト」、トンネルの中をクラブにした「トンネル」、毎月内装がガラッと変わるクラブ、「エリア」などに入りきれないほどの人が毎晩集まった。

入り口に群がる人の中からドアの前に立つバウンサーと呼ばれるスタッフがお洒落なファッションの人や馴染みの客を指刺しして優先的に入れるシステムだった。

指名されて人混みをかき分けて入り口を入る時にはなんとも言えぬ優越感が味わえる。

そんなクラブカルチャーが頂点を迎えたのは「パラディアム」という巨大なナイトクラブがオープンした時だったと思う。

14丁目の3番街にあった「パラディアム」は元劇場でコンサートなどをしていたがその大箱がそのまま磯崎新の設計でナイトクラブに改装されてオープンしたのだった。

武道館くらいはあったと思うが天井まで長々と続く客席の最上階から見下ろすダンスホールは、踊る人が米粒みたいに小さく見えたのでスペースは相当な大きさだったと思う。

その「パラディアム」は内装に現代アートが多数使用されていたのも特徴的でまさに時代の頂点を行くナイトクラブだったと思う。

踊り場で踊っていると定期的にカーテンのような垂れ幕が天井から降りてくるのだがそのカーテンの一つは巨大なキース・ヘリングの絵のタペストリーだったりした。

地下室はトイレと公衆電話のスペースだったが電話機は当時大人気だったケニー・シャーフによってプラスチックのおもちゃやゴムの恐竜などのキッチュなもので過剰に装飾されていた。

圧巻だったのはマイケル・トッド・ルームと呼ばれた2階のバーでバーへの階段の壁にはフランチェスコ・クレメンテの壁画が描かれ、バーに行くと長いバーカウンターの背後には横に長い大きなバスキアの絵画が掛かっていた。

その向かいにも巨大なバスキアによる絵画が飾られていて今考えるとなんとも驚くほど贅沢なバー空間だったのである。

そしていつしかナイトライフも衰退し、パラディアムもクローズすることとなったのだが館内を飾っていたあれらの現代アートは一体どうなったのか気になっていた。

あれから30年、2022年の5月にニューヨークに行き「JEAN-MICHEL BASQUIAT:KING PLEASURE」という大規模なバスキア展を見た。

これはバスキアのファミリーが彼のレガシーを世に残すことを目的に設立したファンデーションが企画した展覧会で今までファンデーションが守ってきたバスキアの作品や資料、写真、アトリエの道具など様々な遺産が初めて一般に公開されたのだった。

そして、その展示コーナーの一室に「パラディアム」にあったあのバスキアの巨大な絵画があったのである。

そうか、あの絵画はバスキアファンデーションが守っていたのだと分かったのと同時に30年ぶりの絵画との再会に懐かしい思いが込み上げた。

1980年代から90年代、ニューヨークは今よりも物騒で危険な街だったがそこには毎晩ナイトライフに熱狂する人々がいた。

気がつけば、そんな在りし日のニューヨークへの愛しい思いを昔と変わらないバスキアの絵画の前に立って噛み締めていた。

KING PLEASURE