VOL.2 MASAHIRO MOTOKI

過去にインタビューしたコレクターを再編集してお届けするCollector Vol.2で紹介するのは本木雅弘さんです。

フランスやニューヨークの話や家族と暮らしたロンドンの話、常に精力的に役者として活躍を続ける本木さんの素顔に迫ります。

 

田辺

今日はお忙しいところをどうも!

 

本木

いえいえ、よろしくお願いします!

最初にお伝えしたいのですが今はアートが身近にある生活はしていないので良太さんがニューヨークにいた時に色々と案内してもらった頃の記憶だけが、アート的な財産になっているだけです。

だからそれを思い出しながら話す程度しか出来ません。

 

田辺

じゃあ、ニューヨークやロンドンの事とか好きな作家とか、そういう話をしましょう。

 

本木

そう、拾い読み程度な感じで。。。

 

田辺

ところでどうですか?ロンドン暮らしは?

 

本木

テートモダンでやっていたダミアン・ハーストの展覧会には行って来ました。

 

田辺

ダミアン・ハーストは、最近のイギリスのスーパースターだよね、どうでした?ダミアン・ハースト展は?

子供と行ったの?

 

本木

子供と行った!

 

田辺

子供も楽しいよね、きっと。

博物館みたいな感じだし。

 

本木

そうそう、巨大な人体模型とか、その、牛をまっ二つとか、そういう奇妙なものも違和感なく見ていた。

サメだったかな、同じシリーズの、ただ、サメであることに過剰反応している感じで。

 

田辺

アート作品というよりも。

 

本木

あ、あのー、蝶を円心上に張り付けてるシリーズあるじゃないですか、あれ、本物の蝶を貼ってる訳でしょ。

で、それがコノートっていう案外シックなホテルにあるフレンチレストランにバンバンって大きなサイズで飾ってあるんだけど、なんというか本当に美しくて品がいいんだよね。

とても簡単な言い方だけど。

 

田辺

そうだね、なかなか出来そうで出来ない?

 

本木

うん、やっぱりすごく希有な力を持った人なんだと思う。

そんなに今までは自分の好みとは違うと思っていたけれど、全体をあれだけの量で見てみると総体的な印象として上品だなって気がしちゃったのね。思考とか、仕上がり感が。

 

田辺

ダミアン・ハーストは衝撃的なアーティストだったから全体を見れたっていうのは羨ましいね。

それで、その感想は品がいいっていうのは凄く面白い感想だと思うし。

 

本木

いつだったかな、数年前にパリに行った時にルイヴィトンの回顧展やっていた時もダミアン・ハーストのオーダー作品があって、青いトランクなのね、もの凄く深い、蝶の羽根の青色みたいな、それも凄かった。神秘的な吸引力で。

 

コクトーの存在感に惹かれて

本木

そしてですね!(バッグから額に入ったジャン・コクトーのアートを取り出す)

 

田辺

おー良いですねー。

 本木雅弘さんのコレクション、ジャン・コクトーのアート

本木

自分で自分の記憶を辿るために(雑誌のクリッピングを出す)月刊角川だったんだけど、そうだな、90年代?初頭に、まあ、コクトーに傾倒してた時があって、英語もフランス語も読めないから一部訳してもらいながら見ていったんですよ。

 

田辺

自分なりに色々調べたりしたんだ。

 

本木

そうそうそう。

コクトーは、詩人だけど絵も描くし、映画も撮るし、小説家でもあり、戯曲家でもあるって人じゃないですか。

 

田辺

マルチだよね。

 

本木

そうそう、だからその辺の好奇心旺盛さ、また「私は真実という名の嘘である」という本人のセリフ、世の中に対しての発言、評論が物議を醸し出したりするような存在感に凄く惹かれて。

 

田辺

うんうん。

 

本木

で、案外そのイラストっぽい感じだけど、素描っていうの、そういった簡単なものも好きで。

モチーフに出てくるギリシャ神話の神々なり、こういう竪琴なり、大きな目とか手とか、描くものも、自分には新鮮だった。

そして、その90年代、コクトーを巡る旅と称してしばらくフランスを回ったんですよ。

かつて本人が晩年を過ごして、本人の遺体が埋められているミリラフォーレというパリ郊外の小さな村があって、そこに小さなお土産屋というか、コクトーにまつわるものばかり売っているお店があって。この素焼き作品を買ったんです。

 

田辺

なるほど、高かった?

 

本木

確かね、30万くらいだったかな。

 

田辺

なるほど、ちゃんとしたお土産というか、ちゃんとしたレプリカだよね。

でも、そのぐらいの値段するってことは、結構ちゃんとした物だな、量産品的なものじゃなくて。

 

本木

あー、でもどうだろうな、でも何か証明書的なものは付いていたけど。

そして、その店で同じように沢山のスケッチ?なにかのノートやら何かに描いた切れ端が沢山売られてる訳。

 

田辺

へえー

 

本木

で、それが、まあ、ファイルみたいにされていて。

べらべらめくりながら好きなの選ぶみたいな。

でも確か、許可を受けて、ここでしか売ってないとか言っていた

 

田辺

これは?これも高かった?

 

本木

えーと、これが確か日本円に換算して123万みたいな感じだったと思う。

 

田辺

あーでも、これは本物だよ。

こういうの沢山描いてたと思うけど、いいよね、ちゃんとサインも入ってるし。

それにしてもコクトーが好だったんだね。

 

本木

そう、コクトーは常に現実と非現実の間をなんかいたずらするみたいに矛盾と辻褄合わせを遊んでいる感じがした。

「僕自身、あるいは困難な存在」とか、評論のタイトルも独特。でも、なんとなく言葉の端々に、発見があるのが面白かった。

だって、コクトー曰く「芸術は肉をつけた科学だ」ですよ。

 

田辺

なるほど!

 

80年代から90年代のニューヨーク

田辺

なんかね、80年代終わりとか90年代くらいかな、なんか、やっぱり最後の輝きじゃないけど、ニューヨークのナイトライフっていうかその、街自体の凶暴性みたいなものが終焉する最後の時で、それなりにクラブとかもすっごい面白かったし。

 

本木

あー、例えば、少しマイナーで、危険なエリアが起爆剤になってブームが生まれたり、発展したりみたいな、、。

 

田辺

そう、人が刺激受けて、アーティストはアートを産み、人と人が繋がったり離れたりしてみたいなこと全部を含めてニューヨークのシーンだったからそこを見れたっていうのは凄く貴重だったし、良かったと思う。

 

本木

本当にそう!何度もニューヨークにお邪魔してギャラリー巡りにくっ付いて行ったのが面白かった。

で、やっぱり、その中でも特に印象的に思い浮かぶのは、ガゴジアンギャラリーに連れて行ってもらって1枚だけだったと思うけど、サイ・トウォンブリーの大きな絵を見た時に、、あれだけ抽象的なものだけど、現物から来る迫力?っていうの。本当に、巨木を目の前にした時のような、なんか、その「気」みたいなのをひしひしと感じたのを覚えてる。

 

田辺

なんか、サイ・トウォンブリーを最初、実物見たことなくて本で見て、でも、なんでここまで凄い作家なんだろう?って思って。

で、実物を見て感じるものっていうのが並半端なものじゃないっていうか、それはやっぱあるよね。

 

本木

そうそう、サイ・トウォンブリーのあの、無作為に投げ込まれたような絵の具。そこに鉛筆でいたずら描きしたような、散文ともなんともいえない言葉がただ並べられ、そこに手で拡げたようにまた絵の具がかぶる、、。本当に現物を見た時に、あの、いつ、何から始まって、いつこれで良し、ってサイ・トウォンブリーの中でどこで美的終点を達成したのかっていう、その狙いも見えない。で、ほとんど無題っていうのが多いじゃないですか。でも、発色がキレイ。何だか濁った色まで鮮やかに感じるし、様々なイメージが呼び起こされるっていうことがもの凄く面白くて。

 

田辺

だから、抽象画の作家って沢山いるけれど、サイ・トウォンブリーのあの静寂感とかなんだろう、なんか日本人も美的な共感性が持てる感じ?

 

本木

そう、何か、ま、心の琴線に触れるみたいな。(笑) なんか、こうひゅーっと染み入るような。響くようなものがあるって思った。良太さんが日本的共感?って言ったけど、 おそらくそれは、余白というか間があるじゃないですかサイ・トウォンブリーの絵には。

 

田辺

そうだね、全然あるね。

 

本木

だから、その行間になにかやっぱり、漂うものっていうのが。

 

田辺

月並みだけど、なんか、禅とか侘び寂びとかさ、そういう美意識に通じる何か。

 

本木

そう、なにか、静寂も豊かさ、というような感じがあるんじゃないですか。

 

田辺

そうだよね。

 

本木

やっぱり作品に衝撃を受けたりすると、その人となりを知りたくなるじゃないですか。

で、少しは調べたりとか。

サイ・トウォンブリーってね~、50年代に一応戦争に行って、アメリカ陸軍の暗号係?だったんだって。

だからそれでちょっとあの感じ?もしかしたら当時使っていた暗号を絵の中に散りばめたりしていたのかなとか。

それから、良太さんに教えてもらったけれど、本人は早々にローマに移住してしまって、もの凄い大理石の大きな家に住んで、そこの壁に自分で子供のいたずら描きみたいな絵を描いているでしょう。

 

田辺

かっこ良過ぎるよね。

 

本木

ほんと!そしてある時期からオブジェも沢山制作していて、、。

もう木でも銅でも何でも組み合わせてただ白く塗りたくっちゃうだけみたいな、何を意図しているのか分からないけれど

でも、やっぱり通じるものがある。そこまでにちゃんと抜き差しがされているような、、

特に洗練された形じゃないのになにか洗練を感じる。

で、それがとても不思議。あと、あんまり注目されないんですけど、本人の写真って言うのが素敵なんですよ。

 

田辺

ああ、あるね!

 

本木

そう、例えば、花とかローマの建造物の柱のかけらをピントボケボケで撮ってるとか、やっぱり本人の絵に通じるものがある。

 

田辺

何やってもサイ・トウォンブリーなんだね。

 

本木

そうそう、空と雲のボケ写真とか、見上げた空に、松の枝みたいのがざーっと入って来ているっていうのを捉えているんだけど、別に空を撮っている訳でもなく、その木の枝を撮っているんでもなく、見えてるものを、別のものにしてるみたいな。

その視点、これは色を見たの?形を見たの?それとも見えてるけど眼に見えないものを撮ろうとしたの?もう、とにかく堂々巡り、良い堂々巡りをしていく訳よ、なんか、観客として。

 

田辺

まあ、でも今言った見えないものを撮ってたのかもしれないね。

 

本木

だとすると、やっぱりアートって凄いね、、。

 

自分の生活全てがアート

田辺

ところで、外国とかだと絵を飾るじゃない。

自分が好きな物、例えば子供の絵でもいいし有名な作家の絵でもいいし、何でも良いんだけど、日々なにか感じるために自分の生活のために飾るっていうのも大事ですよね?

 

本木

そうですよね、やっぱり、平面な壁にたとえばハエ一匹いただけで意味が出てくる?(笑)えっと、それだけでも奥行きが出てくる?(笑)というように。

 

田辺

そうだね!思うんだけど昔色々なアートをどん欲に見た時ってきっとそれが必要だったんだよ、でもそのうち子供とか生活とかで忙しくなるけど多分それは同じことだと思う。

かつてアートに求めていたのと同じ自分を豊かにしてくれるものを今も日常生活から得ているわけだから。

 

本木

たぶんアートって物を作りたいって人間じゃなくても、ごく当たり前に生活を送っている誰しもが、ある瞬間、ちょっと寄り道したいとか、ここから逸脱したいとか、深く別の世界に行きたいとか、そういう潜在的な感性の欲望らしきものがあるのだと思う。

だからきっと永遠にアートは消えないと思うし、アートの力によって群衆や世界が動くってことがあると思う。ちょっと大げさだけど。

 

田辺

そうだよね、個人を動かせる訳だからね。

 

本木

なんかその辺は信じたいし、信じたいって言ってる自分が好き?(笑)

それこそ、全てがコンセプチャル?毎日がアートです、みたいな。

だからウォーホールがただパシャパシャパシャって日々のスナップを撮っていたのも、今でこそ、それが十分過ぎる表現になってる。

 

田辺

ウォーホールは究極のコンセプチャルアーティストであり、センスのいい人?そしてそれを色々な形で残した人だよね。

だから、まあ、自分の生活の回り全てがアートですかね、そういう眼で見れば。

 

本木

ホントにそうですね、いや~この先また自分が、どの方向に行くか、また何らかの形でアートにぐぐっと接触する機会が増えれば、また違う好みも発見出来るかもしれないというのは楽しみです。

 

田辺

なるほど!

今日は長々とありがとうございました、楽しい話が沢山聞けました。

 

本木

いえいえ、こちらこそ、久しぶりに新鮮でした。